あとがき
祖父今村明恒が亡くなった時私は中学一年の一二歳であった。
祖父について子供心に記憶している最初の想い出は、
三歳のころ何かの記念日で煙霞荘の座敷に大勢集まり
会食中に私が粗相をし吸い物のお椀をひっくり返した時に、
床の間を背にした上座から祖父が
「叱ってはいかん」と大声を出したことである。
多分子供が悪いことをしたと認識しているからには、
それ以上責めてはいけないとの
合理的な考え方から発した言葉ではなかったかと今では思っている。
祖父と一緒に暮したのは父の転任の関係で小学校六年の夏の数ヵ月であるが、
将棋の相手をさせられたり、教訓的な話を聞かされたりもした。
将棋は駒落ちの対戦であったが「桂馬の高跳び歩の餌食」とか
よく格言など口にし教えてくれた。
大人になっても煙草だけは吸うなとも言われた。
祖父は若いころ気性の激しい人であったと伝えられるが、
孫には優しい好々爺でしかなかった。
中学一年の秋のある日私は数学や理科の問題を教わりに
当時住んでいた大宮から煙霞荘を訪ねた。
祖父は楽しげに色々教えてくれた。
帰りしなに「また何時でも来なさい」と言われ、
分厚な英語の辞書(三省堂和英大辞典・
特殊語彙地震学今村明恒担当)を書架から取り出し、
「持っていきなさい」と渡された。
それが生前に会った最後である。
(以下略)