プロローグ
ケンペルの『日本誌』と謎の協力者
江戸時代、幕府はいわゆる鎖国政策を維持していた。この「鎖国」という言葉は、ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル(Engerbert Kaempfer 一六五一〜一七一六)がその著書『日本誌』で、日本が西欧に対して閉ざされた状態にあることを指摘したのを、一八○一年(亨和元)志筑忠雄(一七六○〜一八○六)が「鎖国論」と題して翻訳したことに始まる。
大旅行家としても知られるケンペルは、ドイツのハンザ都市レムゴー(Lemgo)の出身で、一六九○年(元禄三)から一六九二年(元禄五)にかけ長崎出島のオランダ商館付医師として日本に滞在した。ケンペルは帰国したのち、一七一六年に六五歳で世を去るが、晩婚で子供達は皆それ以前に早世していた。そのため日本を含む大旅行で得た膨大な資料、すなわち未刊行の自筆原稿やスケッチ、植物標本、絵画、書籍、珍品類などはケンペルの死から八年のち遺産相続人である甥のヨハン・ヘルマン・ケンペル(Johann Hermann Kaempffer)により売却され、最終的にイギリスの収集家で自然科学者でもあるハンス・スローン卿(Sir Hans Sloane 一六六○〜一七五三)の手に渡った。
卿の莫大な収集品をもとに大英博物館(The British Museum)が設立され、ケンペルの未刊の遺稿である「Heutiges Japan(今日の日本)」は館員のヨハン・カスパル・ショイヒツエル(Johann Caspar Scheuchzer 一七○二〜一七二九)の英訳により”The History of Japan”(日本誌)として一七二七年にロンドンで出版された。
鎖国日本を紹介したケンペルの著書『日本誌』はたちまち評判を呼び、かなりの高額にもかかわらず翌一七二八年、早くもロンドンで重版され、その後オランダ語訳とフランス語訳が出された。そして一○年の間に出版された版は、合計一二種類を数えたほどであった。
多くの学者や作家が亡きケンペルに賛辞を呈したり、著書を引用したり、あるいは影響を受けたりもした。たとえば啓蒙思想家では歴史家、哲学者でもあるフランスのヴォルテール(Voltaire 一六九四〜一七七八)、『法の精神』を著したモンテスキュウー(Montesquieu 一六八九〜一七五五)、ドイツの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant 一七二四〜一八○四)、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九〜一八三二)などである。
ケンペルのあとに出島に医師として赴任し日本研究に業績と著書を残したカルル・ペーター・ツュンベリー(Carl Peter Thunberg 一七四三〜一八二八)やフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold 一七九六〜一八六六)も、この著書を基礎に自己の研究を積み上げた。一八五三年アメリカ艦隊を率い日本に開国を迫ったマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry 一七九四〜一八五八)も、まず『日本誌』を研究したといわれる。
このように後世に大きな影響を与えた名著『日本誌』をわずか二年の滞在で、しかも外国人に門戸を閉ざした国において、ケンペルがどのように情報を得たり資料を入手したりして稿をまとめたのか長い間謎とされていた。必ずや日本人の協力者が居たはずだが、そのような人物の記述は著書の中にはどこを探しても見当たらないのである。