京都一人旅 ―運転手さんとの会話―
「お願い致します」
「ハイ、どうぞ」
ドアが開き、私はゆっくりとタクシーに乗り込みました。
ドアは静かに閉り、
「どちらへ」
と運転手さんに訊かれました。
「エーと、どこにしようかしら?」
「???」
運転手さんは、ハンドルを握ったまま、不思議そうに私の顔を見ています。
「あのー、美術館、今、院展開催中ですネ」
「ハイ」
「そこへ行って下さい」
春の院展です。
「いいですネ、京都へ来て、美術館めぐりですか、お幸せですネ」
ホテルを出て、立ち止まって考えている私を待機して眺めていた運転手さんは、そう言いながらエンジンを掛けました。
自動車は走り出します。初めての一人旅で、私は最初どこへ行けば良いのか、決め兼ねていました。十五、六年前から京都には度々訪れていたので、思い出はいろいろあります。春は桜、秋は紅葉、神社、仏閣あり、歴史が古く豊かで、町は風情にあふれていて、訪れたい場所が多過ぎるのです。
「今は歳をとりましたので、こうして、タクシーのお世話になりますけど、昔は随分歩いたものですよ。そうそう、高い所も登りましたよ。嵯峨天皇の御陵、坂本龍馬の山の上の墓地、伏見のお稲荷さん、鞍馬のお山を越えて貴船まで。途中、山の中で蜂の巣に出会い、蜂がブンブン飛び回っていてとても恐ろしかったこともありました。貴船神社に詣でて健康をお願いし、『茅の輪くぐり』をして、川床でお食事をしたんです。夏だというのに清流が冷たく、とても寒かったのを覚えています」
私は以前訪れた場所を思い出しながら、一人で話を続けてしまいました。
「高い所に登る時は、途中で疲れて何度も引き返そうと思うのだけれど、頂上はどんなになっているのかしらと好奇心が湧いて来て、結局、止めることが出来ずに最後まで頑張って登ってしまうのです。でも、今になりますと、登っておいて良かったナーと思いますよ」
なぜか、思い出は高い所の話ばかりになってしまいました。
「お客さん、高い所がお好きなんですね」
運転手さんが振り向いて笑っています。
「ウフフフフ・・・、そういうわけではないけど・・・」
本当は、心の中で若い頃の自分が健脚だった事を誇りたかっただけ・・・。
「私どもは京都に居ても、そんな高い所に登ったことは一度もないですよ」
日焼けした黒い顔が笑い、私もつり込まれて笑ってしまいました。
そんな会話を交わしているうちに、タクシーは美術館へと近づいて行きます。
「この横にある『茶亭』は女性に人気のあるおいしいお茶屋さんです。それから、この奥の『権太郎』はお蕎麦が評判です。一度行かれると良いですよ」
「ありがとうございます」
「ハイ、着きました。お客さん、この観光地図を差し上げましょう。分かりやすく書いてありますからご覧下さい。お忘れ物のないようお気を付けて下さい。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
お互いに頭を下げ、笑顔でお別れしました。
初めての一人旅、運転手さんとの会話が弾んだ楽しい車中のひとときでした。
空は青空、白いちぎれ雲がポッカリ浮んで、強い日射しが目にまぶしく照りつけます。
トン、トン、トン、と石段を踏み、私は美術館へ入って行きました。
こうして老人の気ままな一人旅が始まりました。この先、どのような旅が出来ることやら、出来ぬやら・・・。私にも分かりません。
春の日射しだけが、私を見透かしていたことでしょう。