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書籍

おっちゃんの万葉集
竹取翁の歌を推理する

著者 / 土方賀陽
サイズ:四六判
製本:ソフトカバー
ページ数:296ページ(モノクロ)
発行日:2009年12月1日
価格:1200円(+消費税)
ISBN:978-4-903935-24-9
ご好評につき、完売いたしました。
内容紹介(一部)
古今和歌集 古歌奉りし時の目録の その長歌

万葉集の竹取翁の歌を紹介する前に、少し長い寄り道をします。その寄り道で、私が思う竹取翁の歌とはなにかを紹介したいと思います。
 さて、古今和歌集に、古き歌を集めた歌集の内容を紹介する歌があります。それが、紀貫之が詠った歌番号1002の歌の「ふるうたたてまつりし時のもくろくの、そのながうた(古歌奉りし時の目録の その長歌)」です。
 古今和歌集は、その序に記すように万葉集とは重複しない古今の和歌を集めた歌集です。この「古今和歌集の歌は万葉集とは重複しない」ことを重要視して、私は「古歌奉りし時の目録の その長歌」とは、紀貫之達が古今和歌集の歌と万葉集の歌との重複を避けるために作り上げたデータベースを元にした歌と考えています。ここでは、この「データベースを元にした歌」の視線から紀貫之のその歌番号1002の歌を見ていきたいと思います。
 万葉集の歌もそうですが、古今和歌集の歌も、本来の歌の表記は普段の私達が目にするような句読点、語句切れ、仮名の漢語への置換などの操作がなされた訓読み和歌や漢字混じり平仮名の和歌ではありません。多くの人が指摘するように、万葉集の歌は漢語と万葉仮名だけの楷書体、古今和歌集の歌は毛筆で文字を繋げて書く草仮名の連綿体で記述されています。そこで、紀貫之が詠った歌番号1002の歌も、近現代の先達が解釈した漢字混じり平仮名の和歌ではなく、紀貫之が詠ったと思われる本来の歌の形を最初に考えてみたいと思います。
 手順として草仮名の連綿体に注目し、「古歌奉りし時の目録の その長歌」を、私が手に出来る文庫本レベルの本の注釈から推測した仮名連綿での表記で表したものを最初に示します。(ここの表記は仮名連綿で、本来の書体の草仮名の連綿体ではありません。)

古今和歌集 巻十九 歌番号1002

ふるうたたてまつりし時のもくろくの そのながうた 紀貫之

ちはやぶる神のみよよりくれ竹の世世にもたえずあまびこのをとはの山のはるがすみおもひみだ れてさみだれのそらもとどろにさよふけて山ほととぎすなくごとにたれもねざめてからにしきたつたの山のもみぢばを見てのみしのぶ神な月しぐれしぐれて冬のよの庭もはだれにふるゆきの猶 きえかへり年ごとに時につけつつあはれてふことをいひつつきみをのみちよにといはふ世の人の おもひするがのふじのねのもゆるおもひもあかずしてわかるるなみだふぢ衣おれる心もやちくさ のことのはごとにすべらぎのおほせかしこみまきまきの中につくすといせの海のうらのしほがひ ひろひあつめとれりとすれどたまのをのみじかき心おもひあへず猶あらたまの年をへて大宮にの みひさかたのひるよるわかずつかふとてかへりみもせぬわがよどのしのぶぐさおふるいたまあら みふるはるさめのもりやしぬらむ

当然、この私が推定した仮名連綿での表記では、どう読んでいいのか、何が何だかよく判りませ ん。そこで、古くから草仮名連綿体で表記された歌を理解して、それを読み解く研究が行われて来 ました。その成果の内で、平安中期の国文学の断裂後に写書された藤原定家直筆の伝本である伊達 家本を底本として、窪田章一郎氏が校注したものが次の漢字混じりの表記です。

古歌奉りし時の目録の その長歌  貫之

ちはやぶる 神の御世より 呉竹の 世々にも絶えず 天彦の 音羽の山の 春霞 思ひ乱れて 五月雨の 空もとどろに 小夜更けて 山郭公 鳴くごとに 誰れも寝覚めて 唐錦 竜田の山の もみぢ葉を 見てのみ偲ぶ 神無月 時雨しぐれて 冬の夜の 庭もはだれに 降る雪の なほ消えかへり 年ごとに 時につけつつ あはれてふ ことを言ひつつ 君をのみ 千代にと祝ふ 世の人の 思ひ駿河の 富士の嶺の 燃ゆる思ひも あかずして 別るる涙 藤衣 織れる心も 八千草の 言の葉ごとに すべらきの 仰せかしこみ 巻々の 中につくすと 伊勢の海の 浦の潮貝 拾ひ集め 取れりとすれど 玉の緒の 短き心 思ひあへず なほあら玉の 年を経て 大宮にのみ ひさかたの 昼夜分かず 仕ふとて 顧みもせぬ 我が宿の 忍草生ふる 板間粗み 降る春雨の 漏りやしぬらむ

これですと大変に読み易くなります。ところが、この漢字混じりの表記では、歌の標の「古歌奉りし時の目録の その長歌」との関係が不明になってしまいました。歌の標で古い歌の目録の歌としていますから、古歌は多くの歌を載せた歌集と考えられます。それで「巻々の 中につくすと」と詠っているわけです。この句の表現から、今まで多くの人は歌番号1002の歌は、古歌の歌集の目録のための長歌と理解しているのです。
 では、上に示した長歌の漢字混じりの表記で、歌集の目録と理解出来るでしょうか。私は出来ないと思いますし、窪田章一郎氏もそうですが、多くの研究者も途中でこの歌の解釈を投げ出しています。
 力任せに歌を読むことと歌を理解して読むこととは、当然、違います。「目録のための長歌」の意味合いを棄てれば、日本語の古語の歌を日本語の現代語の歌に似せて置き換えることは出来ます。
 ですが、それでは歌を歌として読んだことにはなりません。研究者の「こうも読める論」での訳では、和歌にはなりません。古今和歌集の仮名序で和歌論を述べた紀貫之が「目録のための長歌」と記した、その標の趣旨に沿ったものでなくてはいけません。