第一章 ツワブキの声
【2005年9月〜11月】
妻は、近くの医師から肺がんと診断され、紹介された病院を訪れたが、まず手術日の決定を迫られたので、そこを退去し、聖路加病院に移った。検査の結果、手術は不可と判明。妻は抗がん剤を断り、放射線を選択、通院ののち入院して11月末に退院した。
結婚指輪
忘れもしない2005年の秋、9月7日、夕闇せまるころ電話が鳴った。近くの内科に出かけた妻の帰りが遅いのを、気にしはじめた折からの本人の声だった。ちょっと緊張している。「先生が『ご主人を呼んで欲しい』と言っている」と言う。ドキッと息をのんだ。
「もっと早い順番だったんだけどね、後から来た人がどんどん済んでって、最後に残されちゃったの。何だか難しい病気みたい」
重大な事態が予感され、皮膚がそそけ立った。大急ぎで自転車で走る。前方に踏み切りが見えた。遮断機が下りる前に渡れればツキがある、などという奇妙な考えが頭をよぎる。懸命にペダルを漕いで踏み切りを通り抜けた。
診断は肺がんだった。病巣は左肺門部、3cm×4cm。
妻の肺がんが判明してから、私は結婚指輪のことがにわかに気になって来た。いつも左手の薬指に嵌めているはずの指輪を、この一年間ずっと嵌めていなかったからだった。それがまるで結婚生活の終わりを告げる前兆ではないかと思えた。
指輪は、実は前年の秋、山でなくしていた。日光白根山から日光沢温泉を経て尾瀬まで行こうという計画の三日目に、雨の中を鬼怒沼の東電監視小屋に着いたところで指輪がないことに気が付いたのだった。なんとなく日光沢の露天風呂の中で抜け落ちたのではないかと思ったが、戻るわけにもいかないし、戻ったところであの白濁した露天風呂の底を探しようもなかった。
指輪をあきらめてからは、今度はいつ妻がそれに気が付くだろうかという変な関心が生まれて、紛失を黙っていた。ところが妻は気づかなかったのか、気づいても気にとめなかったのか、何も問わなかった。そうしているうちに一年が過ぎて、突如がんの衝撃がやって来たのだった。
奇妙なことに、その秋、我が家の庭にそれまでは咲いたこともない彼岸花が一本だけ咲いた。彼岸花は妻の親友が死んだ季節を告げる花でもあった。妻は毎年の秋、岸辺を彼岸花が色染める二ケ領用水を散歩しながら、この花を見ると彼女を思い出すの、と言った。名前からしてあの世にご縁があり、しかも亡き友の残像のような彼岸花が、なぜ今年に限って突如一本だけわたしたちの庭に現れたのかと、この出来事も象徴的な不吉さを感じさせた。花好きの妻もさすがに寡黙だった。
「縁起をかつぐわけじゃないけどネ」
と断りながら、私は妻に結婚指輪の紛失を白状した。これも妻はふーんと軽く受け流した。いつもならユーモアあふれる冗談でお返しがあるような場面だったが、あからさまな反応を見せなかった。不安をこらえていたのかも知れない。紛失後にすぐ指輪を作り直して置けばよかったと悔やんだ。
しかし、事態は指輪にかかずらっていられるほど閑ではなかった。紹介状を貰って訪れた病院では、まず手術日を決めましょうといわれた。紹介状の宛先が呼吸器外科だというので、手術偏重を危ぶんだが、「大丈夫」と言われていた。「放射線でも抗がん剤でも、手術以外の治療法も選べます。よく話し合って決めて下さい」。話が違う、と思った。私たちはそこを退去した。二度と訪れる気持ちはなかった。
次の病院をどこにしようかと、息子たちも交えて話し合った末に、私たちは紹介状なしで聖路加の当日外来に飛び込んだ。聖路加を選んだひとつの理由は、最終カードとして緩和ケア科があることだった。そして、まずは検査入院ということになった。
(千緒日記 9月29日・検査入院中)
朝食抜きなので、ベッドの上で体操をする。窓の外を二匹つながったトンボが飛んでいった。その時ちょうど折りよく教会の鐘が鳴り出した。このことを爽さんに知らせようとケータイを取った時、ドアが開いて爽さんが!
手には庭の花を沢山かかえて「今日は結婚記念日だね」。何と言うグッドタイミング!息子どもにオノロケメールを打ちまくる。
夜、息子が来る。帰り際に「お母ちゃんたちは本当に仲いいんだね」
検査の結果は、治療の難しい肺がんの中でも進行が早く厄介な小細胞がんで、すでに気管にも広がっているため手術不可ということだった。手術を嫌っていた妻は、ホッとすると同時にそこまで病状が進んでいたことに悲しげだった。治療としては、妻は抗がん剤をお断りして放射線を選んだ。
10月に入って、生協で貴金属の出張販売があったので、私は遅ればせながら失くしたものと同じ形質の指輪を注文した。18kで断面かまぼこ型、周囲2.7cm、サイズ二一。裏には相手の名前と結婚した年を刻印。私は元通り1963 Chio と打つように注文した。これでなんとか、ふりかかってきた凶事が少しでも薄らいで欲しいという気持ちだった。二人の平穏を取り戻したかった。
それまでの妻との42年間の結婚生活は、明るい光にあふれた草原の道のように楽しく幸せだった。その光がにわかに陰って、風景ががらりと陰惨な顔つきに変わり、平坦だった道が途切れて、前方には険しい岩場が待ち構えているという気がした。指輪でこの難局を乗り越えられるはずもなかったが、ワラでもおまじないでも、げんかつぎでも何でもいいから、病魔を退ける援軍が欲しかった。
(爽日記 11月1日)
指輪を生協に受け取りに行く。刻印を確認して、指にはめる。夜、一人赤ワインを飲む。結婚記念日に二人で飲もうといっていたワインだ。
指輪が出来上がった時は、もう妻の放射線治療がはじまっていて、通院が辛くなり入院治療に切り替えてもらった後だった。指輪を見せた場所は病院になったが、妻は今度も目だった反応を見せなかった。やはり楽しくないことを再び思い出させてしまったかな、とバカ正直な報告をちらっと悔いた。