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刊行案内(一部抜粋)
お客様インタビュー
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刊行案内
あとがき母が俳句を始めたのは、父が急逝してからであった。急逝というのは少々大げさかもしれないが、われわれ残された家族にはそう思えた。姉も僕も計り知れない悲しみのどん底に突き落とされたが、母の悲しみはさらに深いものであった。父の死が原因で、家族の絆にある種の異変が生じかけたこともあったが、三人は歯を食いしばって乗り越えようと必死だった。そんな中、母は俳句と出逢った。 最初は伴侶を失った悲しみを描いたものが多かったようだが、徐々に作風は変化し、俳句本来の世界を見出していったようだった。自然と人間とが調和した世界を謳うにはうってつけの環境に身を置いていた母は、十七文字に自身の思いを託すことで、そのまわりの自然から多くの力を吸収し、それを生きる活力としていく術を学んでいったようだった。生まれも育ちも淡河という小さな村ではあったが、書くという行為を通して、そのまわりの環境に自分が育まれてきたことを今更ながら実感していったのだと思う。 こうして母は、自分の思いや感覚を文字に変えていく作業の中で自分を取り戻し、また同時に新たな自分をも見出していった。文学を生業としている僕自身、改めて文字の持つ力、あるいは書くということで可能になる人間の再生のようなものを、そばで見ていて実感することができた。そのことは僕自身にも大きな力を与えてくれた。 世間から見れば、子供たちがいながら母は一人で寂しく暮らしてきたように見えたかもしれない。しかし、それは間違っている。母が再生するにつれ、われわれ三人の絆は以前にも増して強いものとなり、離れて暮らしていても互いに信頼し合うことができたし、いつも一緒にいるだけでは得ることのできない優しさや思いやりを持てるようになっていったと思う。 そうは言うものの、父の死後、僕が職場を大阪から東京に移したときは、とても残酷なことをしたように思えた。しかし、母は僕の夢を断ち切ることは絶対にしなかった。それは息子を戦地に送り出すような気持だったのかもしれないが、明るく見送ってくれた。そのことには今も心から感謝している。もちろんそこには姉が比較的近くに住んでいてくれるという安心感もあった。事実、姉は僕がやるべきことをすべて代わってやってくれた。父親がいなくなっても、われわれ三人はこうして誰よりもしっかりと生きているんだということを世間に知らしめたいという強い意志が姉には備わっていたようだ。母同様、強い人である。僕はそうした女性たちに守られて今日まで歩いてくることができた。 思い返せば、東京の大学に進学することに反対だった父を説得してくれたのも母と姉だった。父の死後、合計三年にわたって僕はアメリカの地で研究生活を送ることができたことも、今思えば奇跡に近いことのように思える。僕自身もまさに後ろ髪をひかれる思いで旅立っていったことを鮮明に覚えている。しかし、母は強かった。一九九四年の春から二年間滞在の際には、姪に付き添われてアメリカ東部まで会いに きてくれた。そしてひと月以上共に生活をし、なんとその間に孫も誕生した。母は颯爽と僕の長男を産湯に浸けてくれたのだった。アメリカの地で。 ニューヨークの空港で久しぶりに再会した時の母の表情は今も鮮明に蘇る。満面の笑みがまわりの旅行者の中で際立っていた。しかし、帰国の時は姪の都合で母一人だった。一人機内に消えてゆく母を見送るのは身を切られる思いだった。自分が極悪非道の息子のような気がして耐えられなかった。何度こうして別れと再会を繰り返してきたことか。しかし、われわれは常に一つだった。別れの感傷は一時的なものであり、僕には研究があり、母には俳句があった。彼女は滞米中も常にノートと鉛筆を離さなかった。おそらく機内でもそうだったのだろう。喜びも悲しみも、それを見守る自然の情景を添えて母は句にしていった。そして穏やかな心を保つことができた。 母はこれからも句を詠み続けるだろう。生ある限り謳い続けるだろう。僕たち姉弟はそれをそっと温かく見守っていきたい。たとえ離れていようとも。 (長男 宮脇俊文) |