第一章
スカンジナビアの日はみじかい。
太陽は明瞭な姿を顕すことなく、灰色の空を通して放散する熱を紺碧の海に吸収されながら、やがて遠い島陰に沈んでゆく。
よわよわしい熱の気配が消え入るさまを、カキバは断崖の上からながめていた。しだいに潮が満ちてくる。ごうっ、と打ち寄せる波濤が岩礁に叩きつけられ、白い藻屑となって四散する。
あたりが暗くなり、海鳥の群れもいつしか姿を消している。また雪が降りはじめた。
カキバは踵を返して歩きだす。雪のつもった足もとに視線を落とし、岩場からその先へとつづく丘陵のほうに向かって歩いていく。
数日前まで枯れ草が覆っていた丘陵は、いまや冬の到来を確信するように白い世界に変わりつつある。遠目に見える森では、異種の混交する樹々が雪と風とにわずかな熱を奪われまいと、青黒く、そして静かな歩調を合わせて波打っている。
カキバは雪を踏み締めながら丘陵をのぼっていく。その気配におどろいたアナウサギが不意に飛び跳ね、降りしきる粉雪のなかへと消えていった。
歩をとめて、アナウサギの消えたほうに目を凝らすと、出産が迫っている妻のメルカの顔を思い浮かべる。うらめしそうにアナウサギの影を追いながら、カキバはふたたび歩きだす。明るいうちなら一発の矢で仕留めることができたはずだ、とかれは思った。蓄えてあるトナカイの干し肉も残り少なくなっている。新鮮で柔らかなウサギの肉は貴重だった。
ここしばらくかれらの部族は猟に恵まれなかった。主食であるトナカイの群れが遠くに移動してしまったからだ。トナカイとおなじようにアカシカやウマの群れも見あたらなくなっていた。
本来なら男たちは群れを追って旅に出るべきなのだが、遠出のできる若者や子供たちの多くが奇妙な病に冒されていた。なかには起き上がれないまま衰弱の一途をたどる者もいて、部族中に飢えと病への不安が立ち籠めているのだった。
部族には健康な男手が不足していた。父や叔父たちの歳では長い旅には耐えられなかったし、また、部族一の弓のつかい手であるカキバは遠出を許されなかった。それはこれから産まれるカキバの子が、族長の初孫になるためだった。
かれは歩きながら産まれてくる子に思いを馳せてみる。予定通りなら明日の朝には父親になっているはずだった。だが、どうしても父親になるという実感が湧かない。その姿かたちを想像することはできるのだが具体的なよろこびに繋がらなかった。カキバには父性と母性の本能の違いなど、まだわからなかった。
長い丘陵をのぼっていくと、重いしじまのなかに広大な針葉樹林が横たわっている。空は黒く、あたりは闇につつまれていたが、森の樹々は雪明かりでよく見わたすことができた。
夜鳥の鳴き声が響いていた。それはこの夜にかぎって、かれの耳には不吉なものの嘲笑のように聴こえてくる。かれは小枝を払い避けながら、部族の者だけが利用する雪の降りつもる道を、森の奥へと分けいった。
せせらぎの音が聴こえてきた。泉はすぐそこだった。かれは畔まで出て、そこから岸辺に沿って迂回して進んだ。しばらく行くと暗闇にほのかな灯りが浮かんでいる。小高い丘の中腹にかれらの住む洞窟があった。
カキバは雪に覆われた丘をのぼっていく。灯りが近づくと洞窟のなかから部族の者たちのざわめく声が聴こえてくる。入口を覆っているクマの毛皮をめくり、かれは腰をかがめ、舞い散る粉雪とともに洞窟に入っていった。
洞窟のなかは上面が急激に迫り上がり、幅のある大きな広場になっている。その真ん中で焚火が赤々と燃え盛っていた。まわりを部族の者たちが囲み、語り合っている。元気な者たちも起き上がることのできない者たちも、みなが族長の初孫の誕生を祝おうとそのときを待っている。座のなかには山の部族の長であるメルカの父親と母親、そして従者の顔もあった。みなカキバに気づいてざわめきが静まった。妹が立ち上がってカキバのところに駆け寄った。
「カキバ! すぐよ! もうすぐ産まれるのよ!」
妹の興奮ぶりは広場にいるみなの期待を代弁しているかのようだった。
煤が付着して黒ずんでいる岩壁に朱色のオオツノジカが大きく描かれている。その絵の真下にすわっているのが族長だった。
「今まで何をしていたんだっ?」
族長である父は叱るようにカキバを見やった。
「はじめてのときはわけがわからなくなるものだ。そうだろ? カキバ」
叔父が助け船を出すように言った。
カキバは曖昧な表情を浮かべて頷いた。それからメルカの両親に遅くなったことを詫びて容態を尋ねる。
「だいじょうぶだろう」と、メルカの父は鷹揚に頷いた。「大きな子で娘はたいへんだが、タラームは心配ないと言っている」
笑顔の消えたカキバの表情を見つめながら、メルカの父はカキバがこの出産を心配しているのだろうと思った。が、それはカキバが娘のメルカを愛おしむゆえのものであることは理解できた。そんなカキバの思いを感じるだけで、メルカの父は二つの部族の将来への期待に胸が高鳴る思いがしていた。
タラームというのはこの地方では名の知られた産婆のことで、ときには咒も行ない、どの部族にも出入りを歓迎されている老婆だった。カキバ自身も取り上げられた子のひとりだった。
みなが楽しげにカキバに話しかけた。カキバ以外のみながその夜の出産に自信を持っていた。部族中の興奮が焚火の炎に照らされて、洞窟は熱気を帯びていた。
族長が大きく咳ばらいをして目をつむると、洞窟のなかは静まり返った。
「ものみな宿る精霊たちよ!」
凛として響いた族長の声に、みな一斉に目を閉じてこうべを垂れた。
「われわれの部族に、たくましき子を授け賜わんことを!」