第一章
三年前の冬だった。
ある国立大学の理化学研究所に勤務していた上城操は、妻の明子、それに一粒種の沙羅とともに、大学の職員寮でつつましく暮らしていた。
世田谷の砧公園の傍にあった鉄筋コンクリートの二階建てだ。公園はごみ焼却所建設の見返りに造られた広大なもので、休日になると三人は半日近く芝生の上で過ごした。
操は名前とは裏腹に、長身で精悍な男だった。学究らしく、物事に凝ると、とことん突き詰める性質でもあった。研究所では海外の文献を読み込む仕事が中心だった。夕方ともなると、肩に大きな石を背負ったように疲労が蓄積する。
学生時代にはワンダーフォーゲル部に所属していて、富士山の裾野をよく歩き回った。妻の明子はワンゲル部の後輩だ。明子の少し翳のある美しさに惹かれていた。いつしか明子を富士の姿に重ねるようになった。
研究の区切り毎に、無性に野山に浸りたくなる。特に富士には愛着があって、あの雄大な稜線を眺めているだけで心が癒された。
近くに東名高速の用賀入り口があった。ふと思いついて明子に声を掛けた。
「なぁ明子、クルマ買ってみようか。中古車でもローン利くんだろ」
「ローンだったらなんとかね。でもマイホームは遠のくわよ」
「やたら富士を見たくなる時があるんだ。用賀からなら焼津でも一時間くらいで行けるんじゃないかな」
沙羅を肩車して、操は近くの中古車センターを覘いた。沙羅は操の髪を手綱のように握り締め、はしゃいだ。
(以下略)