序章
「サァーラー、沙羅ちゃ〜ん」
遠くで母の明子が呼んでいる。
マックスを抱いた上城沙羅は、母の呼び声を振り切るように江戸川の土手を急いだ。小柄で痩せっぽち。おでこが秀でて、くりくりした目が利発そうだ。
マックスは隣りの中井家の飼い犬で、白いポメラニアンのオスだ。一昨日からの集中豪雨のために、普段は野球場として使われている河川敷も、逆巻く濁流の下に沈んでしまった。
武蔵野線の鉄橋が架かっている。首都圏を囲むように、郊外を走っているJR線だ。江戸川の東が千葉県のN市、西が埼玉県のM市。鉄橋の手前に、クルマ用の橋と歩行者専用の狭い橋が二つ並んで架かっている。
沙羅は歩行者専用橋に足を踏み入れた。荒れ狂う川の流れに足が竦んだ。ごぉーっという唸りが、低く垂れ込めた暗い雲との間でこだまし、恐怖心を煽る。
赤いカーディガンの胸に隠すように、沙羅はマックスを抱いた。異常を察してか、マックスの前足が沙羅の胸にしがみつく。ブラウスを通して、爪が胸の疵に食い込むようだった。
一台の軽自動車がN市のほうから走ってきた。
「あれ、沙羅ちゃんじゃないの?」
運転していたのは南絵梨の母・智子だった。絵梨は沙羅とは三年一組の同じクラスだ。成績は優秀だが、沙羅にはかなわない。無口で暗い陰を感じさせた。
「ホントだ。声掛けてみようか」
助手席の絵梨が、母の顔を見上げた。
「でもあんた、沙羅ちゃんは嫌いなんじゃない」
智子の、赤ぶち眼鏡の奥が、キラリと光った。
クルマを追い越すように、武蔵野線の電車が近づいて減速した。鉄橋を渡りきったところがJRの駅だ。
電車が過ぎ去ってから、沙羅はマックスの腹が下になるように抱きなおした。
「ほら、凄いでしょ」
マックスの視界で泥水がのたうつ。首を捩じって、沙羅の顔を見上げた。救いを求めるかのような瞳だ。
「かわい〜い。私だけのマックス」
(以下略)