父の思い出
父新野傳吉は明治3年、旧中仙道の群馬県安中村に生まれた。
妙義山の裾を碓氷川が流れ、近くに磯部温泉がある。
安中からの親類のお土産は、
薄くて軽く温泉の香りゆたかな磯部せんべいに決まっていて、
あの香りは今でも懐かしい。
障子張りの際は裏の碓氷川の河原に障子を運んで作業したと聞いている。
旅人が倒れると村はずれにある杉並木まで運び置いてきて、
次の村に病人を押し付けると聞き、子供心に何てひどいことをすると思った。
明治18年10月、信越本線が開通すると宿場町であった村は衰退を余儀なくされた。
それより先、安中出身の新島襄は
明治元年(1864年)函館からアメリカに向け密航(21歳)、
あしかけ10年の海外生活をして明治7年(満31歳)日本に帰国、
キリスト教同志社英語学校(後の同志社大学)を興す。
父は当然新島襄の影響を受けたと思うが、
中央大学法科を出た後、郷里の安中のさびれゆくことに奮起、
ミシガン大学の修士課程に入学、10年滞在した。
英語が不自由で卒業するのに10年を要したのか、
父の渡米後、弟2人も渡米したので、
長兄として面倒を見ていたためなのかは不明である。
父はアメリカで就職することを望んでいたと聞いているが、
長男だから許されなかった。
在米中、安中の母が亡くなった時、
兄弟3人で裏山に入って泣いたと叔父から聞いている。
ミシガン大学の卒業時の四角い帽子と
ガウン姿の写真は私の脳裏にも残っていて、
今も実家の甥宅にあると思うが、
カナダ在住の別の甥が調べたところ、卒業名簿には無いとのこと。
他にも同じ時代に同じケースの方があり、
その方のお話では日米戦争の際、抹消されたとのこと。
日系人は収容所に入れられた時代であるから事実であろうかと思われる。
故人としては誠に残念なことと思われる。
(以下略)