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自分史

安曇平奮闘物語
生かされて、生きて。

著者 / 百瀬卓雄
サイズ:四六判
製本:ソフトカバー
ページ数:100ページ(モノクロ)
発行日:2009年6月20日

内容紹介(一部)
一  多くの師に導かれた青春時代

第二次世界大戦の序章とも言える支那事変の勃発した昭和十二年、私は貧乏百姓の三男として生を受けました。その頃、我が父は祖父と折り合いが悪く、故郷波田村を離れ、諏訪郡長地村に居を構え、苦学独力で勉強し、難関であった蒸気機関士一級の免許を取得。当時最も花形の片倉製糸株式会社のボイラーマンとして活躍し、四人の子供を育て上げました。しかし、突然襲った生糸大恐慌の煽りで失業の憂き目に。そこで子供のために、持ち前の頑張りで「目で見て手でやる事に出来ない事は何も無い」の一念で、危険な鳶職も何のその、最盛期には二十人以上の人足を使い隆盛を極めました。しかし、不況の波は所構わず襲い、請負った仕事は完成しても、元請から充分の支払いが受けられず、年の暮には家族でメザシ一尾ずつで年を越した事もあったと、やや自慢気に話してくれたのを思い出します。それでも父の口癖は、
「俺は他人に騙された事は数々有ったが、他人を騙した事は一度も無い」というのが唯一の自慢であり、誇りでもありました。子供心の私にも強烈な印象であり、この父の姿を鏡とし、私の信念として生かせて貰って来た次第であります。気が付けば母を亡くして四十年、父を送って三十五年、齢七十二歳となり、いつお迎えが来ても不思議ではない事に気付かせて貰っています。

昭和二十年三月二十八日、祖父が弱ったとの事で家督相続のため、波田村に戻ったのが小学二年の新学期であります。諏訪に居た頃は、極く普通の子供だったと思うのですが、波田小学校では周囲が余りにも低い学力で、担任教師には誉められ、同級生には妬まれ、散々いじめられた苦い思い出も昨日の事のようです。転校初日から勤労奉仕と称する麦踏みに駆り出され、西も東も判らぬ麦畑で暗くなって放り出され、一里以上の道のりを農家の方に家まで連れて来てもらい、ようやく家に着いたのは、陽もとっぷり暮れた春の夜でした。諏訪に居た頃は、学校まで五分もかからない所でしたが、波田小学校までは一里近くあり、通学にも大変な難儀を強いられ、雨の日だけは電車に乗って良いと言われ、それが唯一の楽しみでもありました。

波田小学校では担任に恵まれ、二年生の時は倉田八重子先生、三年、四年は曽根原園先生と二人の美人教師に優しく教えて頂きました。特に曽根原先生は、服や靴の配給券を優先的にくださり大変嬉しかったです。この方が後年、私が地元の梓川高校に進んだ時の校長、熊谷信夫氏の弟君、孝男先生の奥さんとなられたのは、何かの運命かと思います。 五年、六年の担任が小林文先生であり、隣の梓川村から山形村小坂に婿入りされた方でありましたが、贅沢を戒め、質素を旨とする立派な先生でありました。木曽の上松中学校の校長から、自分で志願して波田小学校の平教員となり自由奔放な教育方針で、毎日が楽しい授業の連続でした。一例を挙げれば、学校の農場で作った栗を収穫し、近くのアメ屋さんに持って行き、代わりにアメを沢山頂き、授業中に皆でなめたり、国語力をつけるために班別で読み方を競い、グループで一人でも読み間違えると全員でやり直し、全員が合格するとごほうびに体育館でドッヂボール大会を許され、他のクラスの連中に大変羨ましがられた等々、数え切れない程の楽しい小学生活でありました。五年生の終わりに卒業生を送るために送辞を読めと言われ、晴れの卒業式に見合う様な新しい学生服が無いので兄貴の学生服を借りましたが、袖が長すぎて巻紙にかぶってしまい、同じ所を二度読んだ恥ずかしい思い出もありました。小林先生の座右言は
「間違った事は絶対にやるな。正しいと思った事はどこまでも貫け」
とのお言葉でした。この教訓が私の一生を方向付けたと言っても過言ではありません。

中学に入ると担任運が悪く、最初の金井先生はほんの少し担任しただけで顔面肉腫という病に侵され、その年の内に他界され、代わりに教頭の百瀬紋司先生がしばらく担任され、後半は信大出の若手、坪田信彦先生に教わり、一年間に三人の担任という落ち着かない一年でありました。二年になり、満州帰りの豪快な教師であった塩原健先生に二年間鍛えられました。この先生の口癖は
「卓雄! お前は村長になってこの腐った村を再生させろ!」
でした。その頃の私には意味が飲みこめず、三年間ルーム長を押しつけられたのが苦痛でした。同級生が悪戯してもその責任は全てルーム長の責任にされ、その理不尽さに悔し涙を何回流した事か。

中学生活も三年になると、友はそれぞれ自分の進路に向かって動き出しました。担任は
「高校へは行け」
と言うばかりでしたが、昔の人である父は、
「我が家で高校なんか行ったものは誰も居ない。中学出たら百姓やれ」
の一言であり、自分でも諦めて就職組の仲間と遊んでばかりいましたが、親友の真関君が当初は中卒で就職という事であったのに、三月に入って急に地元の梓川高校へ行くという事になり、
「それじゃぁ俺も梓川へ行くか」
と考え父に話したところ、父は大反対でしたが、母が
「金の刻借りは出来ても、教育の刻借りは出来ないから何としても高校へ行け」
と言ってくれました。授業料(当時三百円)も一切出さないとの事で、牛乳配達のアルバイトをして通学しました。その頃、我が波田村農協で生産していた「高原牛乳」が極めて評判良く、配達料は一本一円でしたが、冬場は一円五十銭に値上げしてもらい、多い時は月五千円位稼ぎました。三百円から五百円に上がった授業料も何のその、小遣いは潤沢であり、カメラ、空気銃、オートバイ等々欲しいものは手に入れ、勉強なんかそっちのけで遊び呆けていたものです。当初進学を反対した父もバイクに乗ったり、旅行にカメラを持参したりと結構楽しんでいた様であり、都合の良い親爺ではありました。そんな状態の中で生徒会の役員にさせられ、校長先生とも会う機会が増え、その人柄と教養の高さ(京都帝大卒)に感服し、人生最高の師と仰ぐ事になりました。先生の信念は「自分から頭を下げて役に就く様な惨めな事は絶対にするな」の一言であり、「頼まれれば越後からでも米搗きに」の諺もある事を教えられ、気位を高く持ち続けるべしと悟らされたのが私の今に至る原点であります。ある日校長曰く、
「百瀬! あんまり荒れなんで、もっと勉強しろ、それには予習をしっかりやって教科担任の答えられない様な質問をしろ。そうすれば授業が面白くなるぞ」
と言われ、早速予習に取り組む様になり、担任が答えられずに顔面蒼白、または真赤になってうろたえる姿が何とも痛快で楽しい学園生活ではありました。そうこうするうちに三年も終わりに近づき、家に入って百姓継がなきゃあと思っていた頃、副担任の伴一良先生から
「お前は進学しろ。県の農業講習所(現在の農業大学であるが、当時の学力はかなり高く容易に入れる所ではなかった)に行って農業の指導者になれ」
と強く勧められましたが、父は何を言っても大反対であり、父の苦労してきた姿を思えば仕方なく家事を継ぐ事になってしまいました。