母は昭和五十四年ごろから俳句を始め、その年の一月、鎌倉吟行会から記録を残しています。
今思い返すと申し訳ないのですが、私はサラリーマンとしての会社生活に精一杯で、母がどのような気持ちで毎日を送っていたのかを慮る余裕はありませんでした。母が俳句を始めたのは、ある程度精神的にゆとりが出来、近所に薦める人がいたことがきっかけになったようです。母は「響焔」という俳句の同人となり、妹の伊藤美智子叔母さんとともに句作に励んでいました。美智子叔母さんと、これも妹の石井千寿子叔母さんには、最後まで枕元で励ましていただき、母がどれだけ励まされたことか感謝の念に耐えません。
この四月二十日(平成二十年)に八十九歳で他界してしまった母、ことに最期の一年は次第に幼児に戻るかのように童心に帰っていったこと、そんな母とのあれこれを思い起こすと、存分に母の世話が出来たかといえば、むしろ不十分なことばかりで慙愧の念に捉われてしまいます。
ある人曰く、「いくら手厚く看護をしても最後は悔いばかり残るものです」と。しかしその悔いを少しでも減らしたいとの思いでやってきたつもりではあります。今ここに母が残した俳句を一冊の本に纏めることで、生前の至らなさを少しでも補えたらと思っています。また、この本の出版はわが家の葬祭儀礼でもあると考えています。
勿論、葬祭儀式としてのお葬式は既に済ませているとはいえ、この家に残された母の「魂魄」を送るための精神的葬礼は未だ果たしてはいません。そのためには、母が残していった句作ノートを遺稿集という形で残し、母の仏前へ供えるとともに、生前の姿を少しでも残されたものへ伝えることで、母への鎮魂儀式が完結するのではないかと思っています。また、それが最期を看取った者の義務だと思っています。
こんなことを言っていると、僕や敦子だけが介護していたようですが、陽子ちゃんや裕二郎君も折を見つけては駆けつけ母を励ましてくれました。普段の何気ない気配りがどれだけ母の励ましになっていたことか、残された俳句を読んで気づかされた次第です。ありがとうございました。