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自分史

私の人生懐古録

著者/中嶋晃
サイズ:B5判
製本:ハードカバー
ページ数:86ページ(カラー+モノクロ)
発行日:2006年9月吉日
内容紹介(一部)
少年前期

そうした環境の中で七歳に成長した私は、昭和八年四月七日、父に連れられて石下尋常高等小学校に入学する。当時、長姉千代子、次姉梅子の二人の姉は在校生であった。桜満開の校門を父に連れられてくぐり、元気よく入学する。私は一年二組、男女共学で三クラス。担任は山戸内出身の林梅乃先生となる。その頃の私は、友人と走り回っては窓ガラスを割ったり、走り回って転んではけがをしたりのやんちゃ坊主で有名だったという。年中、先生に叱られ、姉に言いつけられ、家に帰ってから父にお説教をされた思い出が一杯ある。それでも三年生になり、担任が野手サダ先生になった頃はいくぶん落ち着きを取り戻し、また、父の説教も身に染みてか、勉強にも熱中するようになった。学校の成績も上位に進み、十課目中甲位七、乙位三の好成績となり、終業式には優等生の免状をもらい喜び勇んで帰宅した。父に見せると、父は一言、「このお免状は、お勉強は良いが行いが悪い」と言う。成程、お免状の裏側には、操行善良の四文字が消されている。通信簿も操行は二とあり、後で父によくよく諭された思い出が今も目に浮かんでくる。
 いよいよ尋常科も高学年。四年生、五年生、六年生へと進むにつれ一段と落ち着きを取り戻し、担任も大山重治郎先生となり、しつけも厳しく体罰の多い時代、緊張の連続、そして、一心不乱に勉強に力を入れた。
 その甲斐あって、四年生、五年生、六年生とも上位クラスとなり、通信簿もほとんど全甲の成績を取ることが出来た。当時の学業成績評価は五段階制で、甲、乙、丙、丁、戌であり、全甲を取るには、クラス三位以内であるという。そして昭和十四年三月二十七日、三学年とも操行善良学業優等生として卒業することが出来た。
 当時の義務教育は小学校六年生まで。それぞれ就職する者、あるいは小学校高等科に進学する者、そして上級中学に進学する者と、別れ別れの道を進むこととなる。
 今でも後悔し残念に思うことは、上級中学校に進学することが出来なかったことだ。三兄太恵良は下妻中学校を卒業し早稲田大学に進学中。当時の進学状況はというと、私の学年総数男女合わせて一五七名の中で、上級中学に進む者は男五人、女五人の十人程度。しかも進学生はクラス一位、二位の優等生ばかりであった。私も当然その中にあり、担任の先生からも、是非進学しろとの勧めが再三あり、私自身、進学する力も意欲も充分保持していた。しかし、ちょうどその頃、昭和十二年七月七日は日支戦争真っ只中。日に日に戦火が拡大し、次兄昌平は横須賀海兵団に、三兄太恵良は召集され中支戦線へと応召され、残された家族は年老いた父と姉二人。長姉の千代子は昭和十三年吉井家に嫁ぎ、ますますの人手不足となった。田畑一町五反、そして養蚕、二毛作と、男手なくしての農作業は困難であり、年老いた父の疲れ果てる姿を見るにつけ、どうしても進学する気になれず、とうとう断念。父の手助けをしながら勉学せざるを得ないと決断し、小学校高等科に進むこととする。
 男子五十五名、女子五十数名、合わせて男女二クラス百名が小学校高等科に進学した。
 担任は長谷川先生。非常に教育熱心で誠実な先生だった。尋常科当時の成績が認められてか、すぐさま級長に任命され、学年のトップとなりますます意欲を燃やして頑張った。第二学年となるや、その成績と統率力を認められて級長となる。磯野校長のもと全校生徒の代表となり、ますます勉学に熱中。その甲斐あってか、第二学年も全甲の成績を修めた。

高等科第二学年共無欠席で二学年皆勤賞受賞。
 全校生徒を代表して答辞を朗読、昭和十六年三月二十日卒業する。

昭和十六年三月、小学校を卒業した私は父のもとで就農し、一心不乱に父の手伝いに没頭した。その後、農閑期を利用して、千代川村鯨の安原次彦先生の尚志塾に通い、同じ環境にあった吉沼村西高野出身の舘野彦三郎君、同村鯨の青柳要君等と将来の夢と希望を語り合いながら勉学にいそしんだ。
 昔日、吉田松陰が勤皇の志に燃えながら、明治維新の道を開拓し松下村塾に学んだこと。あるいは二宮金次郎が働きながら、独学で日本農業の開拓に一生を捧げ、社会のトップレベルで活躍した話題等々、我が身に実感しながら、中等教育に進学できなかった無念さに耐えながら、何時か叶うであろう自分の夢に向かって、敢然と立ち向かって進むことが出来た。
 その頃、昭和十五年、三兄太恵良が応召され、中支野戦病院で勤務中、敵の夜襲を受け、迫撃砲の被弾により負傷。重傷の身で内地に送還され、大津陸軍病院で療養の身となる。以来二年、傷痍軍人となりながら除隊する通知が報らされた。父も大変喜び、兄が帰還出来ればお前の番だ。兄弟三人、祖国日本のために働けと励ましてくれた。さすが父も日露の戦役の折に出征し、現役軍人として近衛師団騎兵隊に所属。大奉営の護衛の大役を果たし、その当時、現役出征では到底なれぬ陸軍伍長勤務上等兵となり、勲八等の勲章等数々受章した実績を保持している。