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刊行案内(一部抜粋)
お客様インタビュー
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刊行案内
内容紹介(一部)母との思い出お母さんとは約六十七年のお付き合い・・・。思い出は数えきれません。戦中、満州から史彦の出産のために七尾へ帰り、戦火が激しくなった頃、史彦が生まれ、作事町の店から古屋敷の家に疎開。その頃には、千葉家の子供たちも一緒に竹林の中の小さい家で、夜は過ごしました。毎日乳母車に史彦を乗せて、脇につかまって店通いをした事。終戦後、祖父母、住込みの店員さん、叔母たちの家族の引き上げでの大家族の生活。子供ながらに感じた母の苦労でした。 私が小学校低学年の間には、あまり良い思い出はありませんでしたね。でもいつも手作りの食事、おやつ(戦後の食料材料がない時にも)、手作りの洋服で育ち、友達が羨む自慢のハイカラな家でした。店に定休日はなく、早朝から夜遅くまで営業していたので、家族旅行などめったに行けませんでしたが、年に一〜二回、金沢の大和デパートのレストランで食事をし、屋上の遊園地で遊んだ事(当時金沢に行くには、今で言うと七尾から東京へ行くほどの感あり)、従業員の家族と共に能登島でキャンプをした事を思い出します。 私が中学生の頃、お母さん一人で四人の子供達を引き連れて、関西(京都、神戸)から東京を周遊する大旅行は大変でしたが楽しかったですね。当時はまだ蒸気機関車の時代で、トンネルの中は暑く、窓を開けると煙が入ってトンネルを抜けた頃には皆、顔が黒くなり、苦しいやらおかしいやらの北陸線でした。親戚を泊まり歩き、東京では田住の祖母の家に泊まり、初めてハトバス(社会科コース)に乗りましたね。強行の夏休み旅行は忘れられません。 私が短大、就職、結婚、転勤と七尾を離れて十五年。その後、七尾に帰ってからは、店の手伝いで一緒に店を空けることが出来なく、旅行に行く事は不可能でした。そんな中、思いきって店を閉め、父と三人で行ったのが西安でした。最初で最後の三人旅。西安の旅は、ゆったり一味違う心に残るものでした。 思えば昭和二十三年に祖父を病気で見送り、昭和三十八年に祖母を大腸がんで見送り、そして平成十六年にお父さんを見送るまでの間には、あまりにも色々な事がありました。長女であり、長男の嫁としてのお母さんの苦労は、そのまま私も同じような立場で経験をしましたが、祖父母がいての両親であり、両親がいての私。そして娘たちに恵まれたことは、何にも代えがたい幸せです! お母さんにとって、最も気になる出来の悪い娘ですが、ささやかな幸福を噛み締めて、今後、身の丈に合った生き方をして参ります。 沢山の思い出を有難うございます。感謝しております。皆のために元気で長生きしてください。一病息災、少々の迷惑をかけながら・・・・・・。 志保子 |