疎開列車の中での終戦
昭和二十年、私が小学校四年生の夏のことです。
時代は、まさに太平洋戦争末期。私たちの生活にも、
戦争は暗い影を落とすようになっていました。
そんなある日、真夜中に突然ソ連の飛行機が爆撃に来ました。
次の日から、疎開の話で町中の人が動き始め、父と母も疎開の話をしていました。
そしてこの日を境に、平穏で幸せだった私たち一家の生活も、
私自身の運命も一変してしまったのです。
爆撃から三日後の八月十二日、私たち家族は疎開をすることになりました。
しかし、軍事郵便局の仕事をしていた父と関東軍の関係機関で働いていた長兄は、
一緒に行くことは許されませんでした。
父と兄を新京に残し、母子五人で見知らぬ人々と一緒に
「無蓋貨車」という屋根の無い貨物列車に乗り、
行く先のわからない旅が始まりました。着の身着のままの逃避行です。
途中、ソ連の飛行機が来て、トンネルの中で列車が止まってしまいました。
屋根がないので煙がもうもうと立ち込め、息が苦しくなります。
母は私の口にタオルを当て、水筒の中のお茶で湿らせてくれました。
列車に乗って三日後の八月十五日、
中国国境を超えて北朝鮮に入ったところで、私たちは終戦を知りました。
列車を降りて、たどり着いたのは、はげ山の上に建つ小学校の分校です。
私たちはしばらくの間、その分校で生活することになりました。
(以下略)