半生回想記 | 脊髄損傷者が綴る半生回想記 今ひとたびの旅立ち

書籍画像「今ひとたびの旅立ち」

著 / 出口臥龍

  • サイズ:A5判
  • 製本:ソフトカバー
  • ページ数:232ページ
  • 発行日:2011年12月19日
  • 第二刷発行:2018年9月13日
  • 価格:1,500円(+消費税)
  • ISBN:978-4-903935-70-6

ご好評につき、完売いたしました。

出口様は他にも書籍を作られています。

内容紹介(一部)

プロローグ

天から降ってきた紙切れを拾ったら当たり籤だったというような偶然で、ヨーロッパ往復の無料航空券を手に入れた。

神の思し召しであったか悪魔のイタズラであったか。

これが契機となって、三十五年間も海外を渡り歩く人生となったのだが、ほんとうに幸運だったのか不運だったのか。

大学の解体によって居場所を見失なった私は、そのころ自分の進むべき道を模索する日々であった。最初の海外旅行の後、中小の出版社や地方新聞社を転々とした。

四十三歳の時。男が独立開業するには少々遅いとも言われたものだが、自転車の専門誌を発行する会社を立ち上げた。日本語のほか英字紙、中文誌を発行することになった。平成三(一九九一)年二月のことであった。

古いパスポートを引っぱり出し出入国記録を数えてみたこともあったが、途中で放棄した。あまりに多すぎて数え切れない。これだけ頻繁に飛行機を利用していると、いつかは事故に遭遇するなと危惧してはいた。

平成十六(二〇〇四)年一月。

台湾でのバス事故というなんとも締まらない結末が待っていた。首の骨を折り脊髄損傷と診断された。最重度障害の四肢麻痺。手足はぴくりとも動かない。行動的な性格であるのに、もう八年間もベッドで寝たきりの生活である。飛行機事故であればひとおもいに死ねた。荒んだ心を引きずりながら、生き続けるということがいかに辛いことか。

記憶が残ったのが救いでもあった。思い出と空想が世界を走る。

「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」(芭蕉)

この一句が今の私の心情をすべて言い尽くしてくれる。三十五年にわたった世界ドサ回りの人生を振り返ったのがこの文章だ。

初めての海外旅行

大学紛争も不完全燃焼に終わり、濡れた焼けボックイがプスプスと音を立ててくすぶっていた。世は平穏を取り戻し、再び繁栄に向け誰もが邁進していた。こんな日常を苦々しく噛みしめながらも、何するともなく過ごしていた。まともな就職口とてなかった。コネを頼りに映画産業に潜り込もうと根回しはしていたが、目指した映画会社も倒産した。

当時、私とカアチャンは京都に住んでいて、着物地の絵付けをしていた彼女の収入で生活していた。いわばヒモである。こんな生活をいつまでも続けるわけにはいかない、との思いが募っていたが、ある時、単身東京に戻って椎名町のしもた屋風安アパートにころがりこんだ。職はすぐに見つかったが、写真家の助手。給料六千円。こんなもんで二人暮らせるはずもないが、ここを足場にまた探せばいいや、と若いがゆえの極楽トンボであった。

助手生活は一年続いたが、仕事の内容よりも精神的に参ってしまった。アシスタントと言えば聞こえはいいが、実情は徒弟制度の極みで、なんで大学まで行って、こんな使い走りのようなことばかりせなあかんのや、と馴染めなかった。同期だった増田が同じころ上京し、錦糸町のアパートで寝泊まりしながらCMプロダクションに通っていたが、二人して呑み屋にたむろし己れの不遇をかこっていたものだ。

そんなある日、突然カアチャンが東京に乗り込んで来た。それはまさに、乗り込んで来たと言う表現がぴったりの登場であった。

酔いつぶれて早朝アパートに戻ってくると、三畳一間の万年床にカアチャンが鎮座ましましていたのである。直後の修羅場については書くに忍びないので割愛する。

いったん京都に戻り、荷物をまとめて本格的に東京に引っ越すことになった。荷物なんてほとんどないと思っていたのに、それでもトラック一杯の量になった。

(以下略)

あとがき

生きているということが、辛い時期がありました。

朝、目覚めてから、夜、寝付くまで、いや眠っている間でさえ、精神的、身体的苦痛に苛まれ、その苦痛から逃れたい一心でした。苦痛は尋常ではありません。死ねば楽になる、ミイラのような体で天井を見詰めながら、苦痛から逃れることばかりを請い願っていました。

事故に遭ったのは平成十六年一月十二日、出張中の台湾でした。脊髄損傷の中でも重篤とされる頚髄損傷です。脊髄の首の部分を傷つけ、四肢麻痺となったのです。事故当日まで自分の足で歩き、自分の手で物を持っていたのが、この日以降、まるで他人の手足のようになったのですから、その現実をどのように受け入れればよいのか、気も狂わんばかりの日々でした。三年以上続いたでしょうか。

「プロローグ」にも記したように、思い出すことといったら、三十年にわたって歩いてきた世界の人々との交流や、恥ずかしい失敗談ばかりです。たまに体調のいい日があると、介護で訪問してくださる方々に聞いてもらうこともありました。

「その話面白い。本にしてみたら」

と勧めてくれたのは薗部さんという方でした。幸いにして、手足が利かなくとも声で文章をつづる方法を、神奈川リハビリテーション病院で訓練していました。科学技術の進歩ってすごいですね。声で文章が書けるんですからね。

私にとって文芸作品は初めての試みでした。体調の悪いときでも自らに鞭打つようにコンピューターに向き合ってきました。作業を進めるなかで思わぬ発見もあります。文を書いている間は、精神的、身体的苦痛からはすっかり開放されていたのです。これは大きな発見でした。何かに夢中になること、つまり人生に目標を設けることが、苦痛から逃れる最良の方法だったのです。

(以下略)

このページの先頭へ